2026/01/17 07:30

能天気で、奔放で、だいたい幸せそうーー。東京生活の後半に出会った人たちからの評価はそうであったらしい。あるときは褒め言葉として、あるときはちょっとの皮肉として、そして、あるときは「なぜそうなの?」という純粋な疑問とともに。努めてそうしていたわけではなかったので、言われる度に、「きっと、そうなのだと思います。どうしてでしょう…。」と曖昧に笑っていた気がする。
1年半くらい前、自分の感覚を表現してくれている一節に出会った。人生とはそういうもので、それ以来「なぜ?」と聞いてくれる人が現れなかったのだけれど、かつての彼らに答える気持ちでこの場に記しておきたい。不思議な生態(?)の一端に触れたと喜ぶ人がわずかでもいることを信じて。
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というか、もともと自分には幸福や不幸について考える習慣がない。わたしは風とそう変わらないんだ。濡れているもあれば乾いている日もある。しょっぱい日もあれば甘ったるい日もあった。消毒液の匂いの日やパンの匂いの日だって。喧騒に身を浸していた日も、心臓の音ばかりを聞いていた日も。緑色の日。茜色の日。いろんな日が過ぎ去ったけれど、いつだって同じように自分だった。
(小津夜景『ロゴスと巻貝』)
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この本は次のページもよい。阿佐ヶ谷から西荻窪に帰る電車の中で、「そうそう、そうなんです」と一人で嬉しくなったのを覚えている。僕が本屋を開くことを決心したのはたしかこのときだったはずだ。孫引きになるが、この本に載っていたことが大切なので、このまま紹介する。40篇のエッセイから成る本の一篇目「読書というもの」の最後に置かれた一節をどうぞ。
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書物
この世のどんな書物も
きみに幸せをもたらしてはくれない。
だが それはきみをひそかに
きみ自身に立ち返ることを教えてくれる。
そこには きみが必要とするすべてがある。
太陽も 星も 月も。
なぜなら きみが尋ねた光は
きみ自身の中に宿っているのだから。
きみがずっと探し求めた叡智は
いろいろな書物の中で
今 どの頁からも輝いている。
なぜなら 今それはきみのものだから
(ヘルマン・ヘッセ『ヘッセの読書術』)
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本屋のホームページをつくるとき、「冷水のシャワーがふだん見えない背中まで身体の輪郭を浮かび上がらせるように、本は、あいまいでちぐはぐな自分の輪郭を静かに教えてくれるものだと思っています。」と書いた。
自分とは、思いのほか遠い存在で、そのイメージはいともかんたんに揺らいでしまう。だから、僕たちは日常的に<自分>の輪郭を補強しなくてはならないーー。僕はそのことをよく承知していると思うし、揺らぎが逼塞感となってしまった人も知っている。(同一性の危うさは、鷲田清一『ちぐはぐな身体』を参照してほしい。)
本屋を開いた一番の理由は、否応なく輪郭が揺らぐ僕たちの側に、自身に立ち返ることを教えてくれる「本」というものを置いておきたかったから。そして、そのことは、何色の日でも同じように過ごせることにつながる気がしている。
◇◇◇
またまたうるさくなってしまった。ついつい多くを語りたくなってしまうけれど、フィンランド映画のような、なるべく静かな本屋さんを目指したい。ヘッセの言うように、尋ねた光は自分自身の中に宿っているのだから。(2026.1.17)
[登場した本など]
小津夜景『ロゴスと巻貝』(KTC中央出版 、2023年)
ヘルマン・ヘッセ『ヘッセの読書術』(草思社、2004年)
鷲田清一『ちぐはぐな身体』(筑摩書房、2005年)
映画:アキ・カウリスマキ監督『枯れ葉』(2023年)
[写真]
2025年10月7日 淡路島にて、月
